最近、「錦織圭」という名前を、あまり聞かなくなりました。彼の得意の「エァーケー」(ジャンプして打つ、フォアハンドのジャックナイフ.ショット)という言葉も、忘れられようとしています。昨年2月、日本男子として、松岡修造以来、16年ぶり、2人目の、ATPツアー優勝を飾り、その後も全米オープンでは71年ぶりの4回戦進出を果たすなど、活躍を続け、マスコミはこぞって、ヒートアップしていたものでした。今年2月には、ATP世界ランキング56位まで上がり、1996年8月までランキング100位以内に入っていた松岡修造以来の「世界2ケタプレーヤー」になりました。残念ながら、5月に右肘の疲労骨折が判明、8月には内視鏡手術を受け、現在は復帰に向け、トレーニング中です。ランキングも直近で420位まで落ちてしまいました。是非、また頑張ってほしいものです。
その錦織選手が尊敬するのが「史上最高のテニスプレーヤー」と称されるロジャー.フェデラー(スイス)28歳です。テニス4大大会優勝15回、世界ランキング1位連続保持237週(2004.2-2008.8)、芝生コートで65連勝、生涯獲得賞金5,000万ドル。すべて歴代1位です。流れるような気品さえ感じさせる美しいフォームで、欠点の全くない、完成されたオールラウンドプレーヤーです。
「テニス4大大会優勝15回」という史上1位の記録がかかった、今年のアンディー.ロディック(米)との全英決勝をご覧になった方も多いと思いますが、4時間18分、5-7、7-6、7-6、3-6、16-14(トータル38-39!)という、大激戦でした。「観る者を感動させてくれるアスリート」それがロジャー.フェデラーです。その人気は、既に伝説で、彼は、存命のスイス人として、初めて「切手」になっています。
彼が、あるインタビューで「日本人はなぜ勝てないのか?」という、日本人記者の質問を受けた時、こう答えています。「日本には、ミスター国枝がいるじゃないか!」
また、別のインタビューで、「ランキング1位を守り続けるプレッシャーはどれ位なのか?」という質問には、「それが分かるのは、僕と国枝だけだ。」というコメントをしています。
「国枝慎吾」25歳、筋骨隆々の欧米選手を向こうに回し、小兵ながらも、国際試合で、次々とタイトルを奪う「車椅子テニスの世界王者」です。初のダブル.グランドスラム(4大大会制覇)達成者であり、北京パラリンピック金メダリストです。 車椅子テニスは、2バウンドまでの返球が認められている以外、すべて通常のテニスと同じ条件で行われています。
車椅子テニスの歴史はまだ浅く、1976年にアメリカのブラッドバークスが、自らスキー事故で、下半身不随になったのをきっかけに、車椅子の改良を含め、競技スポーツとして成立させました。1992年のバルセロナから、パラリンピックの公式競技として認められ、今日に至っています。プロ、アマ含めて世界で約600人の身障者が、車椅子テニスに参加しています。トーナメントの数も133と、大きく発展してきました。国枝選手の武器は、車椅子の卓越した操作と正確無比のストローク。よどみないそのプレーは、抱えるハンディを、かすませるほど、迫力に満ちています。
今年4月、日本の車椅子テニス選手として初めて、プロ選手に転向、ゴルフのタイガーウッズ、石川遼、テニスの錦織圭などと同じ「IMG」とマネージメント契約を結びました。また、ダンロップ、ユニクロと使用所属契約を結びました。彼が、どうして「フェデラーも一目置く車椅子テニスプレーヤー」になれたのでしょう?
国枝選手は、9歳の時、脊髄腫瘍による下半身麻痺の為、車椅子の生活となりました。小学3年生で、不運な境遇と向き合わなくてはならなくなった少年の落胆は、いかばかりかと、推察されます。彼は、小学6年生の時に、母親の薦めで、「吉田記念テニス研修センター」を訪れ、車椅子テニスを始めました。この「吉田記念テニス研修センター」に、その答えがあるかもしれません。(財)吉田記念テニス研修センター(TTC)は、1990年、故吉田俊二氏、並びに、吉田宗弘現理事長の寄付で、千葉県柏市に、設立されました。敷地面積7,692坪、屋外コート10面、屋内コート4面、フィットネスルーム、セミナールーム、ビデオルーム等を完備し、プロテニスコーチ33名、フィットネススタッフ3名等が、現在在籍しています。(財)日本テニス協会と協力して、テニス技術に関する研究を総合的に行い、科学的な指導.研修により、世界的レベルの競技者を育成することを、目的としています。 TCとしては、「味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC.東京.北区)」が有名ですが、テニストレーニング施設としては、TTCが、日本NO1の施設です。吉田氏が「自宅の一部」を提供して「日本テニスの世界戦略拠点」にしたのです。運営の責任者が、吉田宗弘理事長の奥様.吉田和子さんです。吉田和子さんの旧姓は(テニスプレーヤーなら知らない人はいない)「沢松和子」さんです。
沢松和子さんは、兵庫県西宮市にあるテニスコート付きの家で、姉(順子さん)と小さい頃から、自然にテニスに親しみ、16歳で全日本テニス選手権に優勝、国内192連勝(1969-75)、4大大会のジュニア2大会連続優勝など活躍、日本人初の「プロ選手」になりました。1975年のウィンブルドン.ダブルスで、日系3世アン清村とのペアで優勝、史上初の4大大会タイトルを獲得しました。
「日本人女性初の快挙」は、日本全国に大反響を及ぼし、これを機に、テニスブームが、日本国中、空前の規模で、広がりました。それから30年以上経った今、沢松和子さんのテニスにかける情熱が結実、それが国枝慎吾選手なのです。
昨年秋、TTC主催のゴルフコンペに参加する機会があり、沢松和子さんの姉である沢松順子さんと一緒の組になりました。場所は名門.我孫子ゴルフ倶楽部です。沢松順子さんは1970年のウィンブルドン女子ダブルスで和子さんと組んでベスト8に入るなど沢松姉妹として、有名でしたが、「元プロテニスプレーヤー.沢松奈生子」さんのお母さん、といった方が通りがいいかもしれません。周りの人間を明るくさせてくれる人柄、気取りのない、さっぱりとした性格の方で、一遍にファンになりました。表彰式パーティーでは、和子さんとも話をする事が出来、夢のような楽しい1日でした。
また、TTCで、国枝選手の練習を見学したり、「グランドスラム祝賀パーティー」に出席する機会を得ることが出来た時には、国枝選手や斉田選手(日本2位)と言葉を交わすことも出来ました。
車椅子に座っている彼らの背は、せいぜい私のお腹のあたり、テニスをしていない時の彼らは、失礼ですが、足の障害をお持ちの普通の方々です。
杉山愛のヒッティングパートナーだった越智亘氏が、斉田選手や国枝選手の試合を見た時の感想をこう言っていますた。「体が震えた。車輪がガガガと言っているようだった。」目の肥えたテニスの専門家の体を震わせるようなテニスを、彼らはしているのです。両手を使わなくては、車椅子は前に進みません。車椅子で移動するだけでも大変なのに、ラケットを持ってボールを打つなど、健常人の数10倍難しいことだと、思われます。どれだけの練習を重ねれば、自由自在に、車椅子とボールを同時に操ることが出来るようになるのか。その努力には、敬意を払わずにはいられません。彼らの強化は、TTCにおいて、長期的な計画の元、高い質の練習、施設内のジムでのトレーニング、世界中から集まる情報の分析など、チーム力を結集して、行われてきました。国枝選手には、現在、コーチ(丸山弘道氏)、フィットネスコーチ(ホルスト.ギュンツェル氏)、トレーナー(安見拓也氏)、メンタルトレーナー(アン.クイン氏)の4人がサポートしています。
TTCは現在、世界中から、選手、コーチが訪れる「車椅子テニスの聖地」となっています。
普通のテニスでも、数多くの有望選手がひしめきあって練習しています。錦織圭は、14歳からアメリカ.フロリダで英才教育を受けましたが、日本から将来、ウィンブルドンセンターコートに足を踏み入れる選手は、今TTCで練習している小学生かもしれません。
ハンディをものともせず、強い精神力で、自分の限界を追求し続ける国枝選手。彼の存在を考えると、「運動不足で体が重く全然ダメ」とか、「年で足が動かないからテニスはもう無理」などと、言っていた自分が恥ずかしい限りです。
動ける楽しみ、走れる喜びは、失われて、初めて気づくものです。実は、私は23歳の頃、天皇杯出場を目前にして、交通事故で、左足の粉砕骨折、右手神経断絶という大ケガで、約2年間の入院を余議なくされました。病院の窓から、日々、人々が歩いているのを見て、羨ましいと思い続けていたものです。一生テニスは出来ないと覚悟しましたが、必死のリハビリで歩ける位に回復し、浦高コートで、朝日先生と乱打が出来た時には、思わず涙がこぼれました。その後、復帰に向け、一生懸命努力し、試合にも出れるようになり、埼玉県一般ランキング2位にまでいきましたが、天皇杯は夢で終わりました。
多くの人の「夢」を実現し続ける国枝選手を、これからも、熱く応援していこうと思います。
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